この頃になるとアヴィニョンは豪華絢爛に飾られていた。中では山と積まれた金の計量をしていた、との証言もある。当時の教皇グレゴリウス11世は、敬虔ではあるが、気が弱くリーダーシップを発揮できなかった。しかしカタリナに合流するはずだったフィレンツェの代表は来なかった。内部では和平派と戦争派が対立していたのである。
カタリナは、教皇にフィレンツェへの慈悲を示すよう求めた。ローマ帰還について教皇が質問したとき、彼女は「教皇様が一番よくおわかりのはず」と述べた。胸に秘めたローマ帰還の意を見破られた教皇はカタリナを信頼し、ローマ帰還の意を強めることとなった。
しかしアヴィニョンの側近や枢機卿らはフランス人ばかりであり、荒れ果てたローマになど行きたくない。何と「ローマに行けば毒殺される」という聖人の予言の偽書までつくったのだからあきれてしまう。強い心を持てない教皇はその度にうろたえ、カタリナは何度も手紙で叱咤激励した。
1376年9月、ようやく教皇は重い腰をあげ、ローマ帰還の途についた。しかし側近達は旅程を遅らせなかなか進まない。12月2日、ようやくマルセイユから船に乗り、18日ジェノヴァへ。そこへアヴィニョンから「フィレンツェで暴動がある」との手紙。またもビビった教皇は、街で待っていたカタリナの所に行った。カタリナはフィレンツェのことは任せるようにと言い、安心した教皇は翌77年1月17日ついにローマに帰還した。
ジローラモ・ディ・ベンベヌート作「教皇のローマ帰還」
キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民
キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。
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