教皇庁捕囚12-スコットランド征服失敗

金が欲しいのは英王エドワード1世も同じ。1272年ユダヤ教がイングランドで禁止されシナゴーグが閉鎖。そして1290年ユダヤ人の財産が没収され、彼らは国外に追放された。この後の金融はイタリア人、フランドル人などが台頭したが、王家は結局追放した国外のユダヤ人にもまた金を借りたようだ。

1297年には、フランドルに出兵してフランスとの戦争をするため、増税を行ったが国民は反発、兵は200人しか集まらなかった。出兵した後にも、ノーフォーク伯やヘレフォード伯が議会で、増税無効の議案を提出しようとした。さらにスコットランドのウォレスの乱が起こり、王はイングランドに引き返し、課税を断念。両者は妥協してマグナカルタを確認し、王は議会に課税まで制限されることになった。

1305年にウォレスを処刑して、スコットランドを制圧したエドワードだったが、1306年にはキャリック伯ロバートがスコットランド王ロバート1世として即位。メスヴェンの戦いに敗れて逃走したが、翌年2月、スコットランドに帰還したロバートは、ラウドン・ヒルの戦いでイングランド軍に勝利した。

エドワードは赤痢に苦しんでいて、スコットランドへの行軍の途中、1307年7月3日、カーライル郊外のバイ・バラ・サイズで騎乗中に倒れこんですぐ皇太子を呼び、7月7日に崩御した。王は行軍を続けるよう命令したが、皇太子は撤兵せざるを得なかった。スコットランド征服は結局失敗に終わり、ロバートは今日もスコットランドの国民的英雄である。

下はエディンバラ城にあるロバート1世の戴冠

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。