教皇庁捕囚11-テンプル騎士団火刑に

テンプル騎士団の異端裁判は結論ありきで進められ、当時としても異常なものだった。団員達は数年にわたり拷問を受けて自白を強要され、裁判官がそれを追認した。クレメンス5世は、他国に居る騎士団員も逮捕するように命じたが、証拠もなくほとんどなされなかった。ドイツでは審査した司教が無罪を宣言したりしている。

1309年11月総長ジャック・ド・モレーが裁判に引き出された、85歳。彼は粛々と騎士団の潔白を主張し、その態度はキリスト教徒らしく感銘を与えたが、裁判の行方は始めから決まっていた。ただ総長も高齢のため指導力を発揮できなかったとされている。また王側の逮捕から裁判も完璧で、なかなかつけこむ余地もなかった。

クレメンス5世は、ためらいながらも1312年ヴィエンヌ公会議で騎士団を解散させた。待ってましたという王であったが、テンプル騎士団の資産は、別の聖ヨハネ騎士団のものとなった。しかし王からそれを受け取る代金が支払われ、王側も潤った。

捕えられた騎士団は火刑に処せられ、1314年総長モレーも火刑となった。彼はこの時、王と教皇に「神の御前で会おうぞ」と言ったいわれる。ルイ9世時代に比せられる繁栄を示したフィリップ4世であったが、確かに懐刀のノガレーが逝き、フランドルで反乱が起こり、宮廷にも事件が起こる中この年46歳で崩御した。また教皇も崩御、さらにこの後カペー家は混乱し、ヴァロア朝に代わるが、すべてモレーの呪いと言われたりしている。

下はジャック・ド・モレーの火刑

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。