十字軍後6-ハプスブルク家オーストリアへ

一方、混乱の極みの神聖ローマ帝国にも、ニューウェーブが出現していた。1273年にハプスブルク家のルドルフが、ドイツ王に推薦されて王位につく。しかしこの頃の領土は、スイス北東部にすぎない。実はその頃はボヘミアのオットカル2世の勢力が強く、その力を抑えるために、無難で敬虔というので起用されたのだ。

ルドルフは、アーヘンの恒例で恒例の戴冠。ところが嫌がらせか、王杓が見当たらない、そのとき、咄嗟に祭壇の磔刑像を手にとって、これ以上ふさわしいものはない、と悠々と式をすすめた。おっこれはタダものではない、と気づくべきなのだ。

そのルドルフ王は、ボヘミアのオットガルに、自分のもとに来て臣従の儀式をしなさい、と連絡した。しゃらくせえや!しかし古今東西、こんなことやった者に碌な運命が待っていない。ルドルフは王命違反として軍をあげ、オットガルの勢力を削りたい諸侯が従った。1278年、マルヒフェルトの戦いで、ルドルフ軍はボヘミア軍に激戦の後に勝利した。

その代償として、ルドルフは、オットガルの所領であったオーストリアを得たのである。そして、ルドルフの力を恐れた諸侯が、いろいろ嫌がらせをするたびに、ルドルフは、新天地のオーストリアに傾斜していった。こうしてその後名門として欧州史に名を刻むオーストリアハプスブルクが生まれたのである。

下は磔刑像で戴冠するルドルフ・フォン・ハプスブルク

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。