第8回十字軍7-弟シャルル、シチリア征服

イギリスだけではない、ルイ9世には南に懸案事項があった、シチリア問題である。シチリア王国は、フリードリヒ2世亡きあと、庶子のマンフレディが継いでいた。当然教皇との折り合いは悪い。ルイは、当初干渉せず、という姿勢だった。しかしウルバヌス4世がしきりにヘルプを言ってくる。

教皇は王弟シャルル・ダンジューに手をまわしてけしかけた。ルイはマンフレディが庶子で、正当な後継者ではないのも気に触っていた。そこで1263年、ルイは「くれぐれも無用の戦をせぬように」と言って弟に許可を与え、ついにマンフレディへの十字軍が、教皇によって宣言された。1264年、ルイの顧問官が教皇クレメンス4世となり、ヴァチカンはますますフランス寄りになってゆく。

権力欲に囚われた弟、シャルルは、1265年にカルロ1世としてシチリア王に。66年ベネヴァンの戦いで勝利し、マンフレディを戦死させた。68年にはフリードリヒ2世の最後の一族コンラディンを破り、フリードリヒ2世のホーエンシュタウフェン家は断絶する、恐ろしや。何回も領主を変えたシチリアは、今度はフランス領となり、フランスの移民がやってくる。そしてやがてそれは悲劇を生むこととなる。

シャルルの目標はビザンティンの征服とラテン帝国の再建、もっといえば地中海沿岸の東ローマ帝国の再興であった。彼は、南ギリシャとトルコの一部のアカイア王国の娘と次男を結婚させ、追放されたラテン帝国皇帝を保護して、自ら皇帝を後継。ハンガリーとも結んだ。そして兄ルイはついに再度の十字軍を決心する。

下はペッツォーリ作「マンフレディの死」

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。