近代と信仰22-ジッドの放蕩息子

1902年に「背徳者」を書いたアンドレ・ジッドはちょっとしたスランプに陥った。初期代表作「狭き門」のアイデアはあったが書き直しが続いた。そんなとき07年にボッシュの絵に感動して書いたのが小品「放蕩息子の帰宅」である。知っての通りこれは新約聖書のイエス・キリストの有名なたとえである。

自分の分け前をもらって家を出て行った次男が放蕩を尽くして帰ったとき、父は優しく迎える、これは神の赦しを表している。しかし誰もが考えるのは、次男をなぜ優遇するのかと不平を言った長男のことである。ジッドもまたこれは律法をかたくなに守るノーマルな者と考える。

父は何もかも長男に任せているという。長男はこの世の掟で家を治めていて、父の本当の心がわからない。ジッドは次男にそんな家が嫌だったと言わせている。放蕩も家と自分を切り離すためだったと言うのだ。しかし次男は失敗して家に戻った、これはジッドの今の状態である。

なんとジッドは聖書の物語に3男を加えるのだ。3男は、次男は遺産をもらったのが失敗で、自分は何も持たずに出ていくという。そして次男は3男を祝福するのだ。ジッドは自分の分析を終えて新しく出発しようとする。しかし長男も次男もまた自分であり、ジッドの作品の中でこの3者が繰り返し出て来る。

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。