1873年、清国同治帝は18歳になり親政を開始した。この日より西太后は、権力から退いた。実は西太后の理想は、名君乾隆帝の生母崇慶太后となることだった。乾隆帝は母のためにあらゆる贅沢をさせて、頤和園も母のために建造したのである。西太后は自分の陵墓の建設に意欲を注ぐ。
しかし何と75年、同治帝が19歳で崩御してしまう。死因はどうやら疱瘡らしい。中国では天然痘患者の膿を乾燥させて飲ませるような人痘法が行われており、乾隆帝時代の『医宗金鑑』には様々な人痘法は記されている。ところが効果は不確実で、西洋では牛痘法が開発された。
この牛痘法を宮廷医師団は拒否していた。日本では蘭方医から牛痘法が普及され、1858年には「お玉が池種痘所」が開設され、さらに西洋医学所となる。西洋文明の研究は蘭学を中心に江戸時代に行われており、この差が近代化における日本の先行となったといえるだろう。
ともあれ皇帝が子供を残さず死ぬという事態は清朝始まって以来である。さっそく3歳の光諸帝が即位した。母は西太后の妹、西太后はそのままの地位で権力を維持した。しかしその3か月後、同治帝の皇后が死去した。死因悲しみのあまりの病死とも自殺ともいわれている。
キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民
キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。
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