近代アジアの動乱25-征韓論の挫折

発足後まもない明治政府に「征韓論」が立ち現れた。そのきっかけは、明治政府が政体の変更を李氏朝鮮に通告し、外交を開こうとしたところ拒否されたということである。もともと幕末から列強に対抗するために、朝鮮と同盟するかさもなくば進出しようという考えはもっていた。

さらにロシアの脅威が強調された。遅れるとロシアが南下して朝鮮に進出するかもしれない、そうするとますます不利になるというのである。朝鮮では攘夷思想が活発化し、日本人排斥運動が行われるようになった。朝鮮問題は大きな問題となってきたのである。

1873年6月2日の閣議では、板垣退助らが武力威圧を主張するのに対して、遣欧使節の留守番政府のトップだった西郷隆盛は、自分が大使となって朝鮮に赴くことを提案した。西郷は自分に朝鮮側が暴挙に及べば開戦の口実ができる、と板垣に書簡を送っている。開戦するかは別として、日本内部特に士族にある不満を、外に注目させてそらしたかった意図はあったようだ。

この西郷派遣は一旦内定したものの、岩倉使節団が帰国するや、彼らは朝鮮と事を構えるのは反対した。そして大久保利通を参議復帰させて西郷を説得させようとした。太政大臣三条はこの混乱で病気となり、岩倉具視が代理になり、天皇の裁断で朝鮮派遣は延期となった。そして西郷、板垣らは辞任した。

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。