ウィーン体制18-中部イタリア革命

イタリアでも「中部革命」と呼ばれる事態が起こった。モデナ公フランチェスコ4世は、サルディーニャの王位を狙い、民衆の支持を得ようとして炭焼党のミズレイに接触した。豪商メノッティも、オーストリアからの独立のため、各地で反乱委員会を結成、モデナ公が消極的になる中で、公抜きでの革命を図る。

しかし1831年2月3日、オーストリアに怯えて裏切ったモデナ公はメノッティらを逮捕する。しかし翌日教皇領ボローニャで反乱が成功し、市民はモデナへ進軍し、モデナ公が逃亡した後臨時政府を宣言する。そしてフェラーラ、ラヴェンナなどでも蜂起が成功した。

これら諸州の代表はモデナに集まり「イタリア諸州統一政府」の名により憲法制定議会を準備した。パリの炭焼党は、ルイ・フィリップの支援を当てにしていた。が、そんなことは甘いというものだった。

オーストリアは単独で軍を出動させ、3月9日にモデナ、13日にパルマに進軍、21日にボローニャが占領されて、各地政府は解体された。革命政府は5000人の兵を組織して、3月25日にセッレの戦いを行うが、多勢に無勢で敗北した。蜂起が鎮圧されてからも、オーストリア軍はイタリア北部を占領しつづけ、立憲革命に増して激しい弾圧が行われた。

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。