ウィーン体制17-ワルシャワ蜂起とショパン

ポーランドでも1830年11月29日、ワルシャワ蜂起が起こり、ロシアの総督コンスタンチン大公の宮殿が襲撃された。若い士官達は、ロシアがベルギー革命鎮圧にポ軍を動員するのが憲法違反と怒ったのだ。ポーランドは、ナポレオン時代に独立を回復したが、ウィーン体制で再分割され、ほぼロシア支配下だった。

ポーランドはロシア皇帝が君主の立憲王国となったが、コンスタンチン大公が総督となり、検閲が強化され、憲法はないがしろにされていた。11月蜂起のあと、急進派が内閣をつくり、31年1月25日に、ロシア皇帝をポ王から廃位した。これはロシアへの宣戦布告と同じだった。

31年2月より露波戦争が始まった。18万対7万人でポーランドは奮戦し、グロホフの戦いなどに勝利した。しかし仏普墺の隣国は、自国の利益のために、ポーランドを支援せず、国境を封鎖して物資を入れなかったため、次第に押し込まれて10月に降伏し、ドイツやフランスに亡命する。

ポーランド人天才ピアニストで作曲家のショパンはこの頃、ウィーンに居た。親友も戦争に参加し、ウィーンではポーランド人排斥の機運が高まり、9月パリに行く、その途中で敗北の報に接する。ショパンはこの慟哭をピアノに込めた。エチュード10-12は「革命」と呼ばれているが本人がつけたのではない。

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。