ウィーン体制3-オランダ王国誕生

ナポレオン後の体制として、ネーデルランドに侵略されない確固とした国家を作ることが課題とされた、これは深く関係のあるイギリスが関わる。そこで白羽の矢が立ったのはオランダ最後の総督の息子ウィレム・フレデリックである。憲法学者のファン・ホーヘンドルプは、ハーグに臨時政府をつくり、彼を招聘した。

1813年11月30日、「国王万歳」の歓呼と共にオランダに帰国した。ファン・ホーヘンドルプの立案した憲法が14年3月19日に発布され、国王ウィレム1世が誕生した。同時にウィーン会議は下ネーデルランド、ルクセンブルクと合わせて「ネーデルランド連合王国」となり、15年に再び憲法が発布された。

かつて世界の海に覇を築いた共和国オランダだが、議会と総督が対立して不安定になる面もあった。名誉革命でオランダから王を招いたイギリスは、それと同じような安定的な立憲王制をつくろうとしたのである。ところがウィレム1世は、自分を啓蒙専制君主だと思っていた。

しかし、この連合王国は、プロテスタントの北とプロテスタントの南との組み合わせで、矛盾が出るのはわかりきっていた。特に司教叙任の問題は、プロテスタント王に任せられないとヴァチカンと問題になる。さらに南の意見は、連合王国議会では通らない。分裂の火種は最初からできていたのである。

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。