カール大帝の夢25-ヨーロッパを善で満した男

カール大帝の最後の戦争は、デーン人とだった。デーン人はデンマークのノルマン人で、最初に移動を始め、イングランドに侵入、そして11世紀にクヌート大王が北海帝国を創りあげる。海岸一円を荒らしまわるデーン艦隊に対して、カールも艦隊をつくって対抗、しかし810年にデーン王が家臣に殺害されて終わった。

そしてその年、大帝が馬に乗ろうとしたとき、流れ星に馬が驚いて落馬させてしまったという、すでに大帝62歳であった。その年から翌年にかけ、息子2人と長女を亡くし、死を予感したカールは、諸侯や教会に遺産分配を行った。813年、帝国5か所で教会会議を開催し、俗人部会も作って今後の帝国の方針を検討させた。

9月、帝国会議を開催し、正式にルイを後継とし、自らルイに戴冠した。翌14年1月、大帝は高熱を発し、1月28日、終油の秘跡を受けた後崩御した。埋葬の指示はなかったが、カールのつくったアーヘン大聖堂に葬られた。後1165年12月29日、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサがカールの遺骸を自ら抱き上げ、現在の金の棺に移された。

カール大帝は、詩人に「ヨーロッパの秀でた父」「ヨーロッパの光」と謳われたが、孫のニタルトには「ヨーロッパを全き善で満たした」と書かれた。聖アウグスティヌスは、「神の国」の中で、神の信仰を広め、正しく統治する王を「幸福な皇帝」と呼んでいる。アウグスティヌスに深く影響されたカールは、その理想を生きたのである。

下はアーヘン大聖堂で今も眠る大帝

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。