カール大帝の夢13-東ローマと聖像崇敬問題

フランクと東ローマの関係は微妙である。ピピン3世が教皇領を寄進したとき、ヴァチカンはコンスタンティヌスからの寄進という大胆すぎる手を使った。カールがランゴバルトを討伐して、自領に組みいれたことも、東ローマとの関係を悪化させた。そして教義では聖像崇敬問題があった。

730年、東ローマ皇帝レオン3世が聖像崇敬禁止令を出し聖像破壊が起こり、ヴァチカンと対立を深め、フランク宮廷の聖職者達は、独立を主張するようになる。しかし780年、レオン4世が亡くなり、わずか9歳のコンスタンティヌス6世が即位すると、もともと聖像を崇敬していた母皇太后エイレーネが摂政となった。

エイレーネは、民衆のイコン崇敬に応え、787年第2ニカイア公会議によって、聖像そのものを拝むのではなく、それを通して神を拝むのだ、ということで、聖像崇敬を承認した。この公会議から現代までカトリックと正教会は、一時的に東ローマで聖像破壊が復活することがあったが、この論理で聖像崇敬を行っている。

エイレーネはフランクとも関係改善し、息子皇帝とカールの長女ロトルートとを婚約させた。しかしその後、息子が長じるにつれ母子関係が悪化して、この婚約は自然解消となった。しかし797年、エイレーネが息子を捕えて追放し、ローマを通して初の女帝となり、カールが西帝となってまた東西結婚が再燃する。

下は第二回ニカイア公会議のイコン

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。