ローマから帰ったカールには、ザクセンで相変わらず修羅の毎日が待っていた。カールの留守にザクセンのリーダー、ヴィドゥキントが戻り、カールのつくった町や教会を破壊してまわった。779年改めて軍を起こしたカールはザクセン軍を打ち破り、スラブとの境界のエルベ河畔に達した。
782年7月、カールはザクセンの諸侯を集めた、ヴィドゥキント以外はすべて来た。この会議では、ザクセンにカールの統治代官である伯を入れることを決め、「ザクセン地方に関する勅令」を出す。なんと第8条に「洗礼を受けないものは死刑」と記してある。ザクセン人にとって「意味わかんねー」。
カールは、形式的にでも改宗させようと思ったが強制改宗は反乱を呼ぶだけだった。カールが引き揚げると、ヴィドゥキントの手引きでスラブ人が侵入した。カールは軍を派遣するがジュルエル山地の戦いで大敗を喫し、家臣が何人も殺された。怒ったカールは自ら大軍を率いて攻め込み、1日で4200人を処刑したと伝えられる。
戦いにあけくれるカールにさらに悲報が見舞う。783年、妻ヒルデガルド、その翌年、母ベルトラーダが相次いで逝去。カール35歳、新たにファストラーダと結婚した。その翌年785年にヴィドゥキントが降伏しなければどうなっていただろうか?
下はヘルマン・ヴィスリヌス作ザクセン戦争
キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民
キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。
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