ナポレオン41-ナポレオン2世の運命

1811年3月20日、ナポレオンに待望の息子が誕生した。彼が皇帝になったのは自分の息子に帝位を継がすためだった。ところがジョゼフィーヌには子ができない、実は愛人には子供ができているのでやはり妻に問題がある。そしてオーストリア皇女マリア・ルイーザと再婚した。

結婚戦略はお得意のオーストリア、主導したのはメッテルニヒとタレーランである。皇女マリアは「死んだほうがマシ」と言ったらしいが、結婚すると、ナポレオンはジェントルマンになっていて、深窓の令嬢マリアはすっかり好きになった。つつましやかで浮気もしない新皇后は手が焼けなかった。

出産は難産で、万一の場合は母を救うよう皇帝は指示を出した。男児誕生にナポレオンは大喜びで、パリノートルダムで盛大な洗礼式が挙行された。さらに13年に神聖ローマの伝統にのっとり、息子をローマ王にしようと、まあ幽閉中の教皇ピウス7世と和解をしようとする。が、結局戴冠はできなかった。

ナポレオン退位後、息子は1か月だけフランス皇帝となり、ナポレオン2世の称号を得た。ナポレオン2世は、ウィーンで腫物を扱うように育てられ、ライシュタット公の称号を得た。フランスでの2世への期待は強かったが、彼は病弱で、32年に若死した。ルイ・ナポレオンが3世を名乗れるのは彼が死んだおかげである。

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。