背教者ユリアヌス7-アレクサンダーの如く

ユリアヌスの急激な改革はうまくいかなかったようだ。彼はキリスト教だけでなく、腐敗がまかり通る官僚達の改革もめざしたが、彼らにとってそもそもローマ帝国とはこんなものなのである。皇帝の書物で読んだ理想は現実ではなかったし、プラトンを読んでいるのは友達の無力な哲学者だけであった。

363年、ユリアヌスはローマの領土に侵入してきたササン朝ペルシアを討伐する軍を起こした。その軍にはコンスタンティヌスの着けたXPのラパルムは消えていた。皇帝は8万~9万人の兵で、2方に分けて首都クテシフォンを目指した。一行にはシャプール2世に追放された前帝シャプールの弟が同行していた。

ササン朝ペルシアを陥落させようというのは、古代の理想を奉じていたいかにもユリアヌスらしい。ローマ軍は順調に進撃し、本軍は首都近郊に迫った。ここで初めてペルシア軍は10万の大軍を出して大会戦が行われたが、激闘の末ローマが勝ち、その後はペルシアはまともに戦わず、城に閉じこもって、ゲリラ戦と焦土作戦に移った。

ユリアヌスの本軍に合流するはずの第2軍は遅れ、戦況は好転せず、第2軍と合流するために一時撤退することにしたが、撤退するときほど危険なときはない。6月26日、ペルシア軍の奇襲に前線で指揮をとっているときに、投槍を受けて31歳の若い命を終えた。最後は「我が生涯に一片の悔いなし」と哲学者らしく死んだとローマ愛好家は言っているが、一方で「ガリラヤ人(イエス)よ汝は勝った」と言ったとも伝えられる。いずれにせよ彼の死は神に背いたからだとキリスト教で伝えられた。

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。