312年初頭、後ろを固めたコンスタンティヌスが遂に動く。彼はアルプスを越えて北イタリアに攻め込んだ、兵力約4万。まずスーザの要塞を落とし、トリノに攻め込んだ。トリノでは野戦に持ち込み、撃退して入城した。このとき、彼は一切の略奪を許さず、そのことはイタリア全土に知れ渡ったのである。そして中部ヴェローナでも激闘の後入城した。
コンスタンティヌスはヴェローナでも一切略奪をせず、夏を過ごした。10月28日、マクセンティウスは皇帝6周年の祝賀をしていたというから、のんびりしたものである。その頃コンスタンティヌスはローマへの行軍を開始していた。マクセンティウスはもう少し先で待ち受けたかったようだが、のんびりしたのがたたったのか、ローマ市に入る手前のティべリス川にかかったミルウィウス橋の前に陣を張った。兵力でいえば敵の倍ほどの差があったろう。コンスタンティヌスを川に追い込むつもりだったようだ。
しかしコンスタンティヌスが先手を取って、騎兵突撃を命じた。ローマ軍は重装歩兵が中心で動きが鈍く、ガリア兵に撹乱されてしまった。コンスタンティヌスも最前線に立ち指揮を奮った。ローマ兵は算を乱し、追い込むはずであった橋に逆に追い込まれ、殺到する兵は川に落ち、後ろから追撃を受けて総崩れとなった。総大将マクセンティウスも、川に落ちて溺れ死んだ。
後年、エウセビオスが書いた大帝伝では、皇帝自身が述べたという、決戦前の神からの啓示が記されている。真昼に皇帝の目に十字架が空にかかり、「これにて勝利せよ」との文字が出た。その夜、夢にキリストが現れ、XとPを組み合わせた印を護符として使うよう言い残し、翌朝さっそくその印を職人達を集めてつくらせた。この紋章はラパルムと名付けられ、ローマ軍の紋章となった。
下はヴァチカンのコンスタンティヌスの間にあるラファエロ作「ミルウィウス橋の戦い」
キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民
キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。
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