大帝コンスタンティヌスの母ヘレナ11-頭角

ここで4頭制の神の配分をみてみると、東の横綱じゃない、正帝は一番偉いユピテル。西正帝はヘラクレス、東副帝はマルス、西副帝が太陽神ソル。新たに西副帝になったコンスタンティヌスにはソル、まあそれぞれお仕着せで神が与えられていたわけである。306年、キリスト教迫害は続いていたが、彼の領土では目立った迫害は起こっていないようだ。

307年、5人の皇帝が居る帝国で、元西帝マクシミアヌスが動き、コンスタンティヌスと自分の娘を結婚させて、決起した息子マクセンティヌスとの同盟を提案してきた。コンスタンティヌスは同意(実は妻子が居た)、この結婚で今度こそ堂々と皇帝を名乗った。

308年、東正帝ガレリヌスは、元正帝ディオクレティアヌス、マクシミアヌスを入れてサミットを開催した。そこでディオクレティアヌスは、息子の後ろ盾になって決起したマクシミアヌスに「身を引け」と説得した。結局彼は折れ、新たに東正帝ガリアヌス、死んだ西正帝の後には、ガリアヌスの親友リキニウスが就いた。東副帝はマクシミヌス、西副帝はコンスタンティヌス。ところがローマのマクセンティウスは実質ローマを支配していた。

マクシミアヌスは、娘婿の父としてコンスタンティヌスの領土のガリア(フランス)に居たが、どうも義理の息子とうまくいかなかったようだ。310年、コンスタンティヌスがフランク人討伐に行っている隙に、コンスタンティヌスに代わって皇帝を称した。ところがそれを読んだかのように電光石火で返ってきたコンスタンティヌスに敗北。命は許してもらったが、結局暗殺をたくらみ、バレて死んだ。前正帝を討ち果たしたコンスタンティヌスの地位はますます確かとなった。

下はコンスタンティヌスの結婚のタピストリー

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。