大王対女帝5-普墺ライバル結婚ニアミス?

1728年、モンテスキューは諸国漫遊に旅立つ。この3年間の諸国訪問が、後に「法の精神」に結実する。最初に彼が訪れたハプスブルクの都ウィーンは、都市改造の真っ最中だった。カール6世は、拡大したオーストリア帝国を繋げるために、帝国諸邦との道路網を整備し、郵便を国有化した。

帝国諸邦から人がウィーンに集まり、まさに帝都にふさわしい活気を示し、後に音楽の都とも、芸術の都とも称される。だが、帝国の新官僚や新貴族達はこぞって新しい城館を建てた、ウィーンバロックである。モンテスキューは「君主が貧相な宮殿に、臣下が立派な邸宅に住んでいるのも悪くない」と書いている。

しかしカール6世の心配は世継ぎだった。彼には息子が居ない。その用心のため「国事詔書」を発布し、万一男子が居ないときには、女子承継も認めるとした。その女子とは後の女帝マリア・テレジアである。その婿探しには、欧州の王室が候補となった。

なんとオイゲン公はプロイセンのフリードリヒ王太子を推薦し、本人も乗り気だったそうだ。残念ながら宗派違いで実現することはなかったが実現したら歴史は変わっていただろう。当のマリアは、宮廷に来たフランツというロレーヌ王家の15歳上の青年に夢中で、恋愛結婚するのである。

下は若き日のフリードリヒ2世とマリア・テレジア

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。