我ここに立つ20-ルター結婚と教理問答

「圧倒的じゃないか我が軍は」そう言ってもいいカール5世だったが、そうも言ってられない事情があった。オスマンである。1526年の帝国会議でルター派選定候を黙認したのも、オスマン防衛で協力を得るためだった。そしてハンガリーが3分割された後、トランシルバニアがオスマン側についたのである。

迫害の心配が遠のき、落ち着いたルターは、元修道女のカトリーナと結婚して43歳にして息子誕生。そしてザクセン選帝侯フリードリヒ3世の要請で、領内各地を巡視した。しかし牧師達は「主の祈り」さえ唱えられない。そこで彼が書いたのが牧師用と家庭用のキリスト教生活入門マニュアル「教理問答書」である。この書は特にプロテスタント的な家庭生活に大いに役立った。

英国では、フランスの味方をして皇帝の勢いを削ぐというトマス・ウルジーの戦略が失敗し、失脚同然。ヘンリー8世は報告に訪れたトマス・モアが歩いているとき不意に近寄り、離婚を相談した。虚をつかれたモアは「自然法に反しているなら無効」と言ってしまう。王はスキップしながらブーリンのもとに帰った。

29年になると事態は動き出す。5月スレイマンは大軍をもってハンガリーに向かった。一方フランスと皇帝を和解させる動きも始まっていた。一人は皇帝の叔母マルガレーテネーデルランド総督、そして一人は仏王母ルイーズ。両王と政治に強い影響力を持った2人は実は義姉妹で幼友達だった、あーおいレモンの味がする。

下左は小教理問答書右はカトリーナ・ルター

0コメント

  • 1000 / 1000

キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。