オルレアンの少女44-母の直訴、民衆福音の勝利

ジャンヌの調査は順調に推移していたが、一つ問題があった。ジャンヌの裁判は宗教裁判であったため、復権させるのはキリスト教しかありえななった。ところが、ジャンヌを処刑したパリ大学は、ローマ教皇に反旗を翻し、対立教皇を立てた輩だったので、そのしっぺ返しもあって、教皇は許可を行った。1452年特使がルーアンで調査を開始した。

調査にはルーアン市民がわんさか集まって、異端とされたジャンヌの本当の姿を証してくれた。その一方で、なんとコーション司教をはじめとした判決の主要な人物は皆急逝していたのである。彼らは、民ではなく神の裁きにかかるのだろう。

1455年11月7日、パリノートルダムで、裁判委員の前に一人の老婆が立ったジャンヌの母であった。母は、委員の前で、信仰深く、神と教会に忠実な自分の娘が、無実の罪で火刑に処せられたことを、ひれ伏して切々と訴えたのである。その後は、付いて来たオルレアン市民が我も我もと、訴えを叫び、会場は一時パニックになるほどだった。ともかくその日から復権裁判は開始され、翌年処刑裁判は破棄された。

復権裁判によって、ジャンヌの本当の姿が明らかになった。それは健全な民衆の福音信仰の姿であった。ジャンヌ研究の権威ペルヌー女史は、「福音書は生活の隅々にまで、その果実を実らせており、いつの日かその稀有にして完璧な果実が熟したとしても驚くにあたらない」と記している。ルーアンで、形骸化した偽学者と対峙したのはこのような真の信仰であった。ペルヌー女史はそのジャンヌ伝を「炎に身を包まれながらもイエズスの御名を叫びつつ、彼女は信仰の素晴らしい証をした」と結んでいる。アーメン。

下は判事に直訴するジャンヌの母

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。