オルレアンの少女30-英国連合反撃ジャンヌ死地へ

ジャンヌ達はさらに北に向かい、ラ・シャリテ・シュールロワールを攻略した。しかし季節はすでに11月、冬のさなかに国王は十分な補給を送らず、包囲を解かざるを得なかった。ジャンヌが行ったように、神は人間が兵を送るならジャンヌに命じて勝利を与えられるが、神の戴冠を受けたはずの王のヤル気がないなら、神もどうしようもない。

そのくせジャンヌを失いたくない王は、ジャンヌを両親や兄弟共に貴族に叙した。またドンレミ村はすでに税金を免除されており、これはフランス革命まで続く。ジャンヌは冬を、オルレアン市民のパーティに招かれたり、世話をした者の援助をしたりして過ごした。

一方1430年1月8日には、絶頂にあったブリュージュで、ブルゴーニュ候ルイとポルトガル王女の結婚が豪勢に行われた。ルイは仏王との休戦を引き延ばしつつ、着々と反攻の準備をしていた。そして休戦の証として候に引き渡される都市の約束の即時実行を要求した。またシャンパーニ地方へは軍を派遣して休戦期限前の2月から攻撃を開始した。呑気な国王を尻目にして、ジャンヌには各地から救援の手紙が入っていたのである。

4月22日、ヘンリー6世がカレーに大補給部隊と共に到着した。なぜかというと英兵達は「乙女が怖く」、ベッドフォード候は2度も命令書を書くはめとなり、英王の御出馬を仰ぐほかなかったのである。ここに至り、仏王側も慌てふためき、パニックに陥ったが戦争できる側近は皆遠ざけて勝手に戦っている。ジャンヌは遂に民衆のため最後の戦いに出ることにした。

下はジョルジュ・ルオー作「我らがジャンヌ」

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。