聖都陥落4-スルタン大敗して捕虜死す

アンカラの戦いは、ティムール軍20万に対してオスマン軍は12万と伝えられている。電光といわれるバヤズィト1世は、長期行軍して疲れているはずのティムールに戦闘を仕掛けようとせず、それを見て臆したと感じたアナトリアの領主達は、戦闘中に次々とオスマンを裏切っていった。イェニチェリだけは最後まで奮闘したが、彼らは大宰相と王子を連れて脱出、バヤズィトは落馬して捕虜となった。

バヤズィトは翌年捕虜の状態のまま病死、ティムールはオスマン領土をアナトリア諸侯に返還してやり、バヤズィトの息子達は互いに争ってオスマンは10年にわたる大空位のピンチに陥った。包囲されて瀕死であったコンスタンティノープルは、ティムールによって一旦救われた形となった。

ティムールはすでにインド遠征を行っており、1399年にデリーを制圧した。さらにマムルーク朝が恭順の意を示したことで、モンゴルもできなかったアラブ制圧も達成した。ティムールは、モンゴルの西半分を越える領土を獲得、いよいよ東方遠征に入る。1404年ついに20万の軍勢をもって出陣、しかし1405年2月18日に、その途上で崩御した。

ティムールの創った広大な帝国は、息子達に分割され、再び分立状態に戻り、支配地はサマルカンドを中心とした国とアフガニスタン西部を中心とした国が残り、1世紀ほど存続し、中央アジアのイスラム国家を繁栄させた。特に首都サマルカンドは世界屈指の大都市となった。また王族の一人であるバーブルが、1526年インドに侵攻してここにムガール帝国をつくった。

下はスタニスラフ・チェレボウスキ作「捕虜のバヤズィトを訪問するティムール」

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。