ハインリヒ7世のおかげで助かったのは、ミラノのマッテーオである。ミラノはイタリアとドイツを結ぶ交通の要衝にあり、フリードリヒ1世バルバロッサも2世もミラノを攻撃している。この都市はイタリアの湾岸都市と違い、ロンバルディア平野の農業とドイツとの商業が中心であったため、貴族が政治を担った。
しかしミラノでも民衆派と貴族派の対立があった。対フリードリヒのロンバルディア連合をつくるのは民衆派のデ・ラ・トルテ家である。しかしドイツでハプスブルク家が台頭してルドルフが皇帝戴冠のために南下すると、貴族派のヴィスコンティ家がとって代わった。このとき「ミラノ貴族名鑑」なるものがつくられ、市政に携わる者はこの家の者に限ると決められた。
その後、市民派と貴族派の争いは他の町や他国をまきこんで続くが、1287年マッテーオ・ヴィスコンティがクーデターで政権に返り咲く。ところが今度は、教皇ボニファティウス8世が、北イタリア支配を狙ってまたデ・ラ・トルテ家に政権を交代させた。しかしボニファティウス8世はアナーニ事件で亡くなり、1311年ハインリヒ7世がイタリアに入ろうとする。
如才のないマッテーオは、この機を狙い、莫大な献金を行った。そのことによって、彼は皇帝からミラノの代官にしてもらい、政権復帰を果たした。ハインリヒが崩御したあとも、彼は政権を担い、以来130年余り、ヴィスコンティ家がミラノの領主となる。そして20世紀、この家のルキノ・ヴィスコンティが、「山猫」で、イタリア貴族の没落を美しく描くのも宿縁といえるだろうか?
キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民
キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。
0コメント