仏王ルイの出陣は聖王らしいこだわり。自ら建築した聖堂サン・シャペルに聖地から持ち帰った聖遺物キリストの釘、茨冠と十字架断片を奉納して勝利祈願。リヨンで教皇と会見し、過去十字軍が出発したヴェズレーも訪問して、聖サプロン教会で出発ミサを掲げ、モンジョワ(エイエイオー)号に1248年8月乗艦した。大型艦38隻、通常艦数百隻という大軍勢であった。ついでに嫁も連れていき、国は母を復活させるという一石二鳥の気遣い。
軍は、キプロスに寄った。ここはリチャードの征服以来、十字軍の補給基地になっており、ここで数年来蓄えていた食物を積みこんだ。ところがここに予期せぬ訪問者が現れた何とモンゴル!ルイに言ったのは、これも何と何と、大ハーンは洗礼を受けているとな?そして自分達はバグダッドを攻撃するので、ルイはエジプトを攻撃してほしいというのだ。
さすがにこれは怪しすぎる。ともかく使者には聖遺物のおみやげと「ローマ教皇に従うように」という手紙を持たせた。しかし情報を集めて見ると、モンゴルはキリスト教徒も迫害していないようだ。そしてアンティオキア王が来て、自分達はモンゴルの支配下にあり、モンゴルと協力しないと立場が危なくなると訴えたのである。
ルイは、熟慮し、パレスティナに行って三つ巴で戦うのは得策ではないと思った。ここはエジプトを攻めて、エジプトを併合してからモンゴルと対することにしようと考えた。そこで軍はエジプトを攻撃することになったのである。ちなみにルイは「タタールは地獄(タンタロス)へ送ってやる」と洒落たようだが。
下はサンシャペル内部と聖王ルイ像
キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民
キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。
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