1876年オスマン帝国で憲法が制定された。ヴァルカン半島ではスラブ系独立運動が盛んになり、ボスニア蜂起やブルガリア蜂起が続いた。オスマン帝国はこれを鎮圧したが、このときブルガリア人を虐殺したと列強が非難し、ロシアはスラブ人保護のために介入の姿勢を見せ、イギリスも手を引いてしまう。
オスマンとしては、ヨーロッパ向けに改革姿勢をアピールする必要があった。憲法制定を主導したのは大宰相ミドハト・パシャだったが、皇帝は自分の権力が制限されるのを恐れるチグハグさだった。その間にロシアは露墺協定を結び、ボスニア・ヘルツェゴヴィナをオーストリアにやると約束した。
77年にはオスマン各地で選挙が行われたが、うまくいったとは言い難い。そして77年3月19日に議会が招集されたが、それを取材した「タイムス」は「議会内では10の民族と4つの言語がとびかっている」と評した。しかし時すでに遅く、4月24日にロシアが宣戦、また露土戦争が起きた。
アレクサンドル2世の大改革で復活したロシア軍は、78年にはイスタンブールに迫る。オスマン議会は敗北で皇帝を批判するようになった。78年3月オスマンは敗北し、セルビア、モンテネグロ、ルーマニアが独立、ブルガリア大公国ができた。そしてオスマン皇帝は面倒な議会を解散し、憲法を停止した。
キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民
キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。
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