1863年5月10日は攘夷決行の日である。将軍徳川家茂は、孝明天皇に京都に呼びつけられて止む無く定めた、しかしこちらから攻撃してはならないとも御触れを出す。しかし幕府は、薩摩の起こした生麦事件の賠償金を逡巡の後10万ポンド支払う始末だった。
もはや幕府の攘夷の意志はないとみなした雄藩は、天皇の命令に従い、攘夷を実行する。63年5月長州藩は、関門海峡を封鎖し、外国船に砲撃して下関戦争が勃発した。英仏蘭連合艦隊17隻が、砲台を破壊し、民家にも攻撃を加えた。長州藩は強硬で、民兵を徴兵して戦争を実行しようとした。
8月6日、イギリスは薩摩からも賠償金を取るべく薩摩藩に向かい、薩英戦争が勃発した。薩摩も軍船や砲台を失い、さらには市内を焼かれたが、英艦隊7隻も、旗艦が大破し艦長が戦死するなどの大被害を受けた。
長州藩の急進派は、天皇のもとで日本の攘夷一致を画策したが、8月18日の政変クーデターで、急進諸卿らと共に朝廷から追放された。会津と薩摩藩がイニシアチブを握り、まずは国力充実の穏健路線となる。薩摩藩は親英路線を取り、長州も再戦闘の後方針を転換した。なお両藩共幕府の命令に従っただけどして、賠償金は実質幕府が支払った。排外主義にこだわらなかったことが日本のターニングポイントとなった。
キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民
キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。
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