西ローマ滅亡の道6-アラリックのローマ蹂躙

しかしさすが名将スティリコ、このラダカイススの侵攻も、405年現在のフィレンツェ付近の戦闘で打ち負かした。スティリコは東のアラリックと同盟して、なんとかローマを安定させようとしたが、これは東西の亀裂が深まる中で無理な話だった。

スティリコは、自身の娘を西帝と結婚させて、地位を安定させようとしたが、かえって反発も生んだ。408年、東ローマ皇帝が崩御したとき、書記官長オピュンピアが、「スティリコが東帝を狙っている」と讒言し、なんと彼は西皇帝に逮捕され、処刑されてしまった。

スティリコの幕僚も処刑されたため、残ったゲルマン人兵士はアラリックのもとへ行き、アラリックは帝国を見限った。410年、アラリック軍はローマへ侵入、3日間に渡ってローマを略奪した。しかしアラリックは病で亡くなり、息子とホノリウスが交渉して、王に奉じられた。そしてガリア・イスパニアに西ゴート王国が出来てしまった。

ローマに居た文化人達もアフリカに逃れた。その中にペラギウスという学者が居た。彼ら一派はカルタゴに逃れ、そこで教えを広めた。アウグスティヌスは、ドナトゥス派に加え、ペラギウス派とも論戦することになった。

下はアラリックのローマ略奪

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。