仏王処刑12-シャン・ド・マルスの虐殺

ルイ16世の逃亡未遂はどう繕うとも、王権反対の共和主義者を勢いづかせた。1791年7月15日、ジャコバンクラブで、ルイ16世廃位請願が決められ、議会多数である反対派は脱退してフイヤン修道院に移り、フイヤン派として分裂した。ジャコバン派は、デモと市民の請願署名を企画した。

デモが行われるシャン・ド・マルス練兵場とは、現在エッフェル塔が建つ公園。ここはローマとガリア軍が最初に衝突した場所で、ローマはガリア人の勇猛さを讃えて軍神マルスの像を建てた。そしてその後は練兵場となり、1790年からここで連盟祭が行われ、祖国の祭壇が設けられた。

7月17日朝、祖国の祭壇に隠れていた2人が王党派として縛り首となった。これを機に立憲議会は戒厳令を発動した。司令官ラファイエットが到着した頃には5万人が集まっていた。そこに国民衛兵が到着したから、いっせいに彼らに投石が始まり、兵隊は威嚇射撃を空に行ったようだ。

その後、市民への射撃があったか定かではないが、10数人の犠牲者が出た。しかしたいへんな犠牲者が出たと口コミで広がり「シャン・ド・マルスの虐殺」が定着した。ジャコバン派にも逮捕状が出され、マラーやダントンは逃亡した。この事件で、戒厳令の印に使われた赤旗はその後、抵抗のシンボルとなる。

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。