仏王処刑10-ヴァレンヌ逃亡事件

翌4月19日、国王ルイ16世は、立憲議会に赴き、昨日の騒乱を非難し、国王の行動の自由を訴えたが、議会の無力さを示すだけだった。聖職者宣誓をめぐって、急進共和派とカトリック国民は分裂し、急進派マラーは議会批判を始めた。ルイはこのまま居ても無駄と思ったが、その決断は遅すぎただろうか?

ルイ16世は王妃の勧めるパリ脱出を行うことにした。逃亡先はネーデルランド国境のモンメディ要塞に決まった。そして協力者こそフェルゼン様だった。彼は別々に目立たぬ馬車で行くことを提案したが、王妃は家族全員でといって大きな特注馬車をつくったため、足が遅く、目立ち、計画が遅れることとなった。

さらに19日決行の予定は、小間使いが怪しいという王妃の言葉で、結局一日遅れ、6月21日午前1時ごろ、王家は宮殿を脱出し、フェルゼンに導かれたが、パリを出るときルイは彼を下がらせた。そして重い馬車は脱輪事故を起こしたりして、計画はさらに遅れた。午前6時に王の不在がパリに知れた。

出迎えのショワズール大佐の待つはずのシャロンに到着したのは午後4時で、彼らは部隊を目立たぬよう分散させ、道に迷った。国王一家は豪華な食事をして、国王かもという疑いを町民に抱かせた。さらに進むも、迎えの部隊は現れず、ヴァレンヌでは群衆が群がった。ショワズールと合流できたが、すでに遅かった。

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。